Masuk勝利の食事、という言葉ほど、今のリディアに似合わないものはなかった。
王宮東棟の奥、宰相執務室に隣接した小さな食堂。 普段はギルベルトが会議の合間に使う部屋らしく、飾り気はほとんどない。 壁には王国地図。 窓際には書類箱。 丸いテーブルの上には、湯気を立てる皿が二つ。 焼いた白身魚、野菜の煮込み、柔らかいパン、温かいスープ。 食後のためらしい蜂蜜漬けの果物まで用意されている。 どれも丁寧に作られていた。 香りもよい。 おそらく、普通なら食欲をそそるのだろう。 だが、リディアは匙を手にしたまま、しばらくスープの表面を見つめていた。 勝った。 悪女裁判は反転した。 ベルナール・オルトの式部局副長官室と、白羽の会、白鳩文具商会、逃亡していたマルク・レイン。 それらを結ぶ糸が見えエドガル・クレイム第二王子は、提出期限というものが嫌いだった。 昔から嫌いだった。 いや、正確に言えば、提出期限そのものを嫌いだと意識したことすらなかった。 なぜなら、期限が来る前に誰かが整えてくれていたからだ。 王子教育院の課題。 式典の挨拶文。 地方視察後の報告書。 慈善茶会への返礼文。 第二王子府の月次執務報告。 どれも、最後には綺麗な形になってエドガルの机へ置かれていた。 もちろん、彼も何もしていなかったわけではない。 目を通した。 署名した。 時には「ここの表現は少し冷たくないか」などと言った。 言った後、リディアが静かに直してくれた。 だから、自分は執務をしていると思っていた。 王子として必要な判断をしていると。 今になって思えば、あれは判断ではなく、整えられた皿の上から好きな果物だけを選ぶようなものだった。 種を取るのも、皮を剥くのも、傷んだ部分を切るのも、全部誰かがしていた。 その誰かの名前を、エドガルは長い間、きちんと見ていなかった。 リディア・ヴェルクレア。 王国監査官。 かつての婚約者。 そして、自分が便利な机のように使っていた人。 その事実は、最近になってから何度も胸の奥を刺した。 刺すだけなら、まだよかった。 問題は、今も提出期限は来るということだった。 王太子府の執務室。 エドガルの机には、分厚い書類が積まれている。 ヴァルモント公爵領の施療院薬代支援に関する差異報告。 白羽の会旧支援先への再配分確認。
オルガ・ヴェルクレア公爵夫人は、受領書というものを軽く見ていた。 少なくとも、以前の彼女はそうだった。 物資が届けば、使用人が確認する。 寄付金が動けば、会計係が記録する。 茶会の収支は執事長が整え、礼状は書記係が下書きし、最後に夫人である自分が目を通して署名する。 それが、公爵家の慈善だった。 美しい封筒。 整えられた字。 感謝の言葉。 夫人方の穏やかな微笑み。 銀の茶器。 白い花。 そこに、木箱の数や、毛布の枚数や、石鹸の重量などというものが入り込む余地はなかった。 少なくとも、オルガの中では。 だから、彼女は今日、王宮東棟の雨音基金準備室で、一枚の受領書を前にして、完全に固まっていた。「公爵夫人」 監督官の声は、決して荒くない。 むしろ丁寧だった。 丁寧すぎるほど丁寧だった。 それが余計につらい。「こちらの欄には、納入予定数ではなく、実際に受領した数を記入してください」 オルガは、羽根ペンを持ったまま、紙を見つめた。 納入予定数。 実際に受領した数。 似ている。 いや、似ていないのかもしれない。 だが、今の彼女には似て見えた。 書類にはこうある。『冬季支援用毛布 納入予定数:百二十枚 実受領数:百十六枚 不足数:四枚 備考:運搬中破損二枚、積込時確認漏れ二枚。再納入予定あり』 オルガは、その一番上の百二十枚を見て、受領欄へ百二十と書いていた。 美しく。 とても美しい字で。
第99話 宰相夫人のひいき リディアがハーグレイヴ伯爵家から受け取った最初の返事は、財産記録ではなかった。 正式な抗議状だった。『王国監査官リディア・ヴェルクレアは、私的な家族経験から生じた偏見により、善良な寄付者を不当に犯罪者扱いしている』「善良な寄付者」 ギルベルトが、感情のない声で読み上げた。 感情がない時ほど、彼は怒っている。 レイヴァン邸の朝食室。 焼きたてのパンも、温かい卵料理も、誰にも手をつけられないまま冷め始めていた。「続きがあります」 リディアは抗議状の二枚目をめくる。「読みたくない」「公文書です」「君が読めばいい」「先ほどから読んでいます」「私の前で読むな」「同じ部屋にいるので無理です」 ギルベルトは抗議状を睨んだ。 紙に罪はない。 だが、今の彼なら紙へ爵位剥奪を命じかねない。「オズワルド・ハーグレイヴ伯爵は、公開審問を要求しています」 ロザリーが淡々と報告する。「監査官による権限濫用の有無、寄付者への不当な圧力、伯爵家の名誉毀損について、王宮で明らかにしたいとのことです」「受ける必要はない」 ギルベルトが即答した。「受けます」 リディアも即答した。 二人の声が重なった。「なぜだ」「拒否すれば、権力で隠したと言われます」「言わせておけ」「雨音基金の信用へ影響します」「君の安全より基金を優先するな」「今回は石を投げられていません」「
聖ルカ孤児院へ行く日の朝、ギルベルト・レイヴァン王弟宰相は、いつになく真剣な顔で荷物の前に立っていた。 王宮の会議室で旧貴族派と向き合う時も、ヴァルモント公爵の処分文書を読み上げる時も、ここまで険しい顔はしていなかった気がする。 目の前にあるのは、木箱三つ。 一つ目は、雨音基金設立前の臨時支援物資。 中身は新しい毛布、靴下、石鹸、薬草茶、簡易包帯。 二つ目は、子どもたち用の手習い板と筆記具。 三つ目は、王妃宮から届いた焼き菓子と干し果物。 そして、少し離れた椅子の上に、セレスティナが持参した焼き菓子の籠があった。 その籠だけ、なぜか誰も触れない。 リディアはそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。 避けているわけではない。 ただ、皆がほんの少し警戒している。 前回の焼き菓子が、なかなかの硬さだったからだ。「閣下」 リディアが声をかけると、ギルベルトは木箱から目を離さずに答えた。「何だ」「そんなに見つめても、荷物は軽くなりません」「配置を確認している」「配置?」「馬車へ積む順番だ。一番重いものを奥に、すぐ使うものを手前に置く。孤児院到着後に運ぶ動線も確認した」「……本当に雑務係として本気ですね」 そう言った瞬間、ギルベルトが静かにリディアを見た。「雑務係ではない」「失礼しました。荷物係でしょうか」「それも違う」「では」「宰相だ」「宰相が荷物を運ぶのですか」「必要なら」 この人は本当に、必要と言えば何でも押し通せると思っている。 リディ
名前を決めるだけの会議ほど、長引くものはない。 リディアは、王宮東棟の会議室でそれを思い知っていた。 机の上には、新しい救貧基金の設立案が置かれている。 白羽の会を解体し、王妃宮から独立させ、支援先代表と監査局が関わる透明な基金として再編する。 そこまでは決まった。 支援先が直接窮状を申請できる窓口。 寄付総額、実支援額、運営費の公開。 礼状文面指定の禁止。 茶会費、装飾費、記念品費を寄付金から出さないこと。 支援先代表の運営監査参加。 王妃宮や特定貴族家の政治的影響排除。 大事な骨組みは、もう決まっている。 だが、名前が決まらない。 それだけで会議は三時間目に突入していた。「ですから、格式というものが必要なのです」 グレイシア侯爵夫人が、扇を閉じながら言った。 彼女は白羽の会の旧運営委員ではないが、王都婦人慈善連絡会の代表として出席している。 悪い人間ではない。 悪い人間ではないが、自分が格式という言葉を使う時、なぜ人が少し疲れた顔をするのかまでは、まだ理解していない。「救貧基金というものは、ただ物資を配る箱ではありません。寄付者に信頼を与え、支援先に安心を与え、王都社交界にも品位ある形を示さなければなりません」 リディアは、手元の候補名一覧を見る。 一つ目。『王妃宮救貧基金』 却下に近い。 王妃宮から独立させるための基金なのに、王妃宮と名付けてどうするのか。 二つ目。『王国慈善透明基金』 正しい。 とても正しい。 だが、あまりに硬い。 監査局の書類棚
ユージーン・ヴァルモント公爵は、最後の日にも白い手袋をしていた。 皺ひとつない、上等な手袋だった。 灰色の礼服も、銀の杖も、磨かれた靴も、昨日までと変わらない。 まるで、自分は何も失っていないのだと言い聞かせるような整い方だった。 王宮東棟の処分確認室。 そこに集められた者は多くない。 王太子アーヴィン。 王弟宰相ギルベルト。 王国監査官リディア・ヴェルクレア。 監査局記録官ロザリー。 補助官セオ。 そして、ヴァルモント公爵本人。 以前のように旧貴族派の取り巻きはいない。 夫人方もいない。 式部局の者も、王妃宮の女官もいない。 ただ、処分文書と、署名台と、証人たちだけがある。 それがかえって、ヴァルモント公爵の孤立を際立たせていた。 リディアは、机の上に置かれた処分文書を見つめた。 紙は厚く、白い。 だが、王妃宮の白さとは違う。 隠すための白ではない。 記録として残すための白だ。 アーヴィン王太子が、静かに口を開いた。 「ユージーン・ヴァルモント公爵。白羽の会、王妃宮名義書簡、慈善支援配分、式部局評判整理案、ならびにヴァルモント公爵家秘書室関連文書について、王太子府および王国監査局は最終処分を決定した」 ヴァルモント公爵は、深く礼をした。 「拝聴いたします」 声は穏やかだった。 けれど、昨日までの余裕はない。 その穏やかさは、薄い氷のようだった。 触れれば割れる。 ただ、まだ割れていないだけだ。 アーヴィンは文書を読み上げる。 「第一。ユージーン・ヴァルモント公爵の王宮内全役







